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2010.12.28

2009.8.22 "sc journal" 掲載blog 53

ARTの言い分
どちらかと言うと本好きの私は、常に「次に読む本」がスタンバイされていないと、何となく気持ちが落ち着かない。
たまに未読の文庫本を切らせてしまった時の心持ちは、ビール好きが、冷蔵庫の中にビールを見つけられなかった時の落胆に少し似ているかもしれない。
エアコンの程よく効いた寝室、心地よいムアツ布団に高さを調節した枕そして、程よく調光されたリーディングランプ = ちゃぶ台の上にレイアウトされた、薬味をたっぷりのせた冷や奴、チーズのみそ漬、枝豆そして、テレビのスポーツ中継...。前者、後者ともに主役を欠いたちょっとさみしいシチュエーション(あくまで自分にとっての)。
文庫本はジャンルを問わず、好きな作家や書評をもとに買い足していくため、同じ本を何度も読み返す事は少ないのだが、その数少ない一冊に「名画の言い分(木村泰司著)」という単行本がある。じっくりと読み返すというよりも、時間のある時にちょっと読みたいから、常に手に取れる場所に置いてある。
”数百年の時を超えて、今、解き明かされる「秘められたメッセージ」” とてもそそられる副題ではないか...。
学生時代に美術史をちょこっとかじりはしたものの、基本的には自分の好みに合うかどうかの判断のもと、右脳で「美術鑑賞」をしている自分ではあるが、その作品がつくられた歴史的、宗教的、地域的背景をはじめ、数百年前の作品作りに介在した意外な経済的背景や当時の文化トレンド、権力者や作家の思惑など、ちょっとした左脳的情報が加わる事で、美術鑑賞の面白さが倍増するのである。(だから私は、美術展で貸し出しているイヤホンガイドは、必ず借りる派である。)
この「名画の言い分」、本の始めの部分に、本文でとりあげられている作品をカラー写真で参照できるようになっている。しかしこのページをめくったり戻したりする作業がちょっと面倒くさい。それに、年号がたくさん出て来るので、年表も作って整理すればもっと分かりやすく、情報が頭に残ると思う...。
「教科書にしてノート作りたい」と読むたびに思わせる一冊である。 (うの)

090822

2009.7.23 "sc journal" 掲載blog 52

夏まつりと金魚。
ふと気がついたら、蝉が鳴き始め、近くの学童保育所からは子供達の元気な「雄叫び」が聞こえてくる。最近の日本の夏は本当にきびしいけれど、当然のようにやって来るこの夏らしい風景には、「やっぱりいいなー、この感じ。」と思わずにいられない。わずかな切なさを含んだ懐かしさ、のような気持ちが、夏の風景に引っ張り出されてくるのだろうか。
先日娘の保育園で恒例の夏まつりが開催された。どこかのんびりと、園庭に漂うゆったりとした「まつり」の雰囲気の中、いつもとは違う浴衣姿の先生達にちょっと戸惑いながらも、甚平や小さな浴衣を着て走り回る子供達、盆踊りの曲間に聞こえてくるヒグラシの音に、ここでもやっぱり「いいなー、この感じ。」と思った自分は、実は夏大好きなのだろうか。
その夏まつりの「金魚すくい」でいただいてきた金魚。
とりあえずキッチンにあったジャーに移し、娘が何やら金魚に話しかけている間に、インターネットで飼育方法などを調べてみると... 水槽、ポンプ、水あわせの仕方、餌やりなどなど、生き物を飼うためには当然にしなくてはいけない事が書いてある。そもそも、金魚すくいをする時は、あらかじめそれらを用意しておくべき、との指摘もあった。まさにそれが正しいのだが...。
この時から夫婦にとって「金魚」への対応が「最優先事項」になったのだが... 残念な事に間もなくこの金魚は死んでしまった。
夫婦で仕事をしていて、打ち合わせ等で外出する事も多く、子供の頃にきちんとペットの面倒を見る事が出来なかった事がトラウマとして残っている私たちは、「動物は飼うまい」と心に決めている。
しかし今後、子供がペットを飼いたがった時にどう対応したら良いのか、私たちの心が変わる可能性もあるのか... この小さな金魚がひとつのテーマを投げかけてくれたような気がする。小さな命に感謝。 (うの)

090723

2009.7.1 "sc journal" 掲載blog 51

QUOTES - 言葉 -
昨晩、仕事場のパソコンの前に座り、「そろそろあがろうかな~」と考えながら友人のホームページを眺めていた。
この友人は、80年代の終わりから90年代の始めにかけて、インダストリアル・デザインを学んだ美術学校の1年先輩で、現在もロンドンでフリーランスのデザイナーとして活躍している。
ロンドン生まれの香港チャイニーズ(当時はこう表現していたが、今もそういう表現をするのだろうか...)だった彼は、ART&DESIGNを学んでいた事もあって「日本文化」に強い関心を持っていて、1年遅れて入って来た私に何かと親切にしてくれた。
そんな彼のホームページには、作品や彼自身の紹介の他に、彼に少なからず影響をあたえた「言葉/QUOTES」が書かれている。
デザイナーはもちろん、さまざまなジャンルの作家や哲学者などが、主に「ものづくり」に関して発した言葉達...。
久しぶりに目を通すと、とても新鮮で私の心に直接届くものが多く、「QUOTESを読んで感銘を受けた事」「地球規模で何かと複雑で、難しい時代だからこそ、こういう言葉に接する事で気持ちがリセットされる...」などの感想を、数行の短いメールで彼に送った。
彼からの返事には、(返事と言っても、私からの「ショートメッセージ」に比べ、「これは何かのレポートか?」と思わせるボリューム感。正直困る。)簡単な感謝の言葉と、英国での不況がいかに深刻で出口が全く見えてこないなどの現況報告、その反面で私が以前「いつか欲しい」と言っていたデザイナーの椅子に、ロンドンのオークションで40,000ポンドの値が付いたから早く忘れるように、などの忠告がユーモアたっぷりに書かれており、そして最後に「ホームページにQUOTESを掲載した事に関しては、良いと言ってくれる人も居たけど、pretentious(プリテンシャス:ニュアンス的には「いかにも格好つけてる感じ」)だと言って良い印象を持たない人も居たよ」と書かれていた。
本であったり、雑誌記事であったり、歌や詩、講演で聞いた言葉や友人とのなにげない会話の中での言葉であったり...、誰でも、何らかの「言葉」に助けられたり、道筋をつけてもらったりした事があるはずである。
だから、何となく行き詰まった時に頼れたり、リセットさせてくれる言葉を自分の中に持っている事はとてもすばらしいと思う。
もし私がクライアントで、デザイナーを選ぶ立場にあったとしたら、私の友人のように、指針となる「言葉」を持っているデザイナーを選ぶのではないだろうか。
それは、単に「ニーズに応えて造形する」というだけでなく、「言葉」を媒介に思考が広がり、フォルムを導きだすための「コンセプト」にたくさんの要素が詰まっていそうな気がするからである。最終的に「大人の事情」がそこに加わって、いろいろとそぎ落とされる事になっても、もともとたくさん詰まっているから... 残ったものは「魅力的」なものになりそうな気がするからである。
だから、彼がホームページの「QUOTES」で「言葉」をオープンにする事は、決してプリテンシャスな行為ではなく、良い言葉を教えてもらえたら嬉しいし、また、彼にとって「営業的効果」としても理にかなっていると思う。
それにしても本当に、思わずうなずいてしまう、この夏Tシャツにプリントしたいと思わせる言葉ばかり...。(うの)

090701

2009.6.22 "sc journal" 掲載blog 50

緑の庭に想う
地方都市という事もあるが、緑豊かな住宅地に建つ家々には、比較的大きな庭がある事が多い。
春になると、それぞれの庭が華やかに彩られ、夏には深い緑と蝉の鳴き声に覆われる。
どのお宅もきちんと庭の手入れをしているようたが、ハナミズキや桜、松など... 立派に育てたシンボルツリーを持つ家は、年に二、三度、庭の手入れの為に造園業者を入れている。らしいという事が、引っ越して来て約5年の間に分かって来た。
庭をきれいに保つためには想像以上の時間と労力が必要で、「多分自分達には無理だろう...」と、庭の植栽面積を極力小さくまとめた我が家の庭でさえ、ちょっとした花や植木の手入れ、雑草取りに結構な時間を取られてしまう。と言ってもやり始めると楽しくて、気持ちを切り替えたい時など、これがとても良い作業なのであるが...。
つい先日も、お隣の家に庭の手入れのための業者さんが来ていた。(造園業者と言うには少しばかりカジュアルな感じ。)毎回来るこの業者さんは、見た目にもベテランのカップルで、おそらくご夫婦なのだと思うが、いつも手際よく雑草の処理をしたり植木を剪定したり、息の合った感じが見ていてとても気持ちがいい。
今回の一枚は、その二人が手入れをしている庭で、休憩しているところを撮らせていただいた。
ヨーロピアンスタイルのガーデンファニチャーで、お茶をしながら話に興じている様子にとても惹かれてしまったのである。
あくまで私の勝手な想像であるが、二人はいつも一緒に汗を流し働き、少し休んで会話し、お弁当を食べてまた庭をきれいにするために体を動かす。作業が終わると、切った枝と道具を軽トラックに積んで颯爽と帰って行く。そして二人が去った後には、きれいに整った庭と、お隣の奥さんも、その美しい庭の緑を借景のように窓から眺めさせてもらっている私の中にも「すがすがしい」気持ちが残る。
二人が休憩時間を過ごす何気ない姿からは、長い時間をかけて培ってきた、信頼や労りなどといった想いを内包する「呼吸」のようなものが感じられ、漠然とではあるが、暮らしや日々の営みの「シンプル」である事、「ベーシック」である事の良さ、みたいな物を感じたのである。(うの)

090622

2010.12.27

2009.6.2 "sc journal" 掲載blog 49

ニュアンスを探しに...
私たち夫婦が好きな作家に山本容子さんという版画家がいる。
とても有名な作家なので、知っている方も多いのではないだろうか。
もちろん作品もすばらしいのだが、いつ見ても思わず「かっこいい」と感じてしまう女性であり、妻も同じ印象を持っているらしい。
以前、NHKのお昼の番組に山本容子さんが出演した事があった。話題が彼女がドローイングする際に愛用しているフランス製の「青色のペン」の事になり、その時の彼女の言葉が印象に残っている。(なにぶん大分前の話なので、不正確な部分あり。あしからず。)
日本でも普通の文房具屋さんに売っているような、一見何の変哲もないペンを見て、「こういったブルーのペンだったら日本にもあるんじゃないですか? なんでわざわざフランスから...」といったようなアナウンサーの問いかけに、「確かに、似たようなブルーはあるんですが、ちょっと違うんです。ブルーの感じが...」と、こんな感じのやりとりだったと記憶している。
この番組を見ていた私たちは、「そうそう、そうなんだよねー。」と思わず互いにうなずき合ったのを覚えている。
この「ブルーの感じ」。使っている本人も具体的な違いを言葉で説明する事のむずかしいこの「感じ」こそが、いわゆるニュアンスなのである。
そして、こういった「ニュアンス」は、技術的に作ったり、簡単に真似できるものではなく、例えば、その場所で、人や暮らしの中で、もっと大きくとらえるなら文化のなかで、時間をかけて培われてきた「空気」の中に存在しているのだと思う。だから、フランスに限らず、日本だって、アメリカだって、インドだって独特の「ニュアンス」を持っていて、その場所や文化独自のキャラクター形成に一役買っているのである。
ものづくり(のような)仕事にたずさわっていると、自分が表現しようとしているものの中に、どこか違う土地や文化の「ニュアンス」を取り入れたいと思う時が多々ある。そんな時は出来るだけ様々な資料を見て、「ロールプレイイング・ゲーム」のように、まるで自分がその場所にいるかのように「妄想」したりしてみるのだが、本当なら、その場所に行って、しばらくそこの「空気」を吸って、「ニュアンス」を体の中に取り入れてくるのが一番いい。 ...のは分かりきっている事だが、実際に実行するのはとてもむずかしいのである。
今日、そんな「一番いい」(と私が勝手に思っている)事を実践してる知人の女性から、私たち夫婦に一葉のポストカードが届いた。それもフランスから。
とてもうれしい、ニュアンス de France のお裾分けである。手描きのポストカードからは「空気感」がしっかりと伝わってくる。
偶然だが、つい先日、その知人が以前働いていたガーデニングのお店で私たちはバラの木を買って来て庭に植えたばかりだった。”スヴニール・ドゥ・ルイ・アマード”という名前の木立のフレンチローズで、色はピンク。とは言ってももちろん、いい感じにフレンチのピンク。
その知人がいつ日本に戻ってくるかは分からないが、もしバラの咲いている季節だったら、庭のフレンチローズを愛でながら、みやげ話でも聞かせてもらえるとうれしいと思う。そして彼女の中に取り込まれたフランスの「ニュアンス」をちょっとだけ分けてもらえたら... と今から期待しているのである。(うの)

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2009.5.22 "sc journal" 掲載blog 48

おべんとう
昨晩遅くに妻が描いていたスケッチ。
今日は保育園に通う2才の娘の「遠足」の日である。
遠足と言っても、近くにあるだだっ広いファミリーパークに、現地集合でお遊び+お昼を食べて午後1時には解散という、いい意味でゆるーい感じの「遠足」なのである。
実際に、そのくらいの子供達にとっては「素晴らしい景色」とか「エキサイティングなアトラクション」よりも、「ワーッ」と叫びながら安心して走り回れる広場と少しの遊具、そしてなによりも大好きな先生やおかあさん(またはおとうさん)と一緒にお昼が食べられたら満足なのである。 ...と子供を見ていると感じる。
うちの娘は毎日の夕食も「おべんとう箱!」と言って、ごはんとおかずをお気に入りのお弁当箱に詰めて食べるほどの「おべんとう」好き。自然と妻の肩にも少しだけ力が入る。
「明日は5時半に起きるからね、私が寝てたら起こしてちょうだい。」とベッドに入る妻に、「なぜ、毎朝5時半頃になるとワサワサした気持ちで目を覚ましている事を知っているのだろう。」といぶかしがる夫。
同じ園には、見事な「キャラ弁」(主にアニメキャラクター)を作ってくるおかあさんも居て、そんな弁当を見せられると当然子供は大喜びする。昨年の遠足では、妻も「あのおかあさんは凄い。」と心底関心していた。そして...、
今朝起きて妻の描いた「おべんとう」のスケッチを見て思わず笑ってしまった。
「私も子供が喜ぶようなキャラ弁作ってあげたいけど... やっぱりダメ...。」といった心の葛藤が、特に左のおにぎりに表れてしまっているではないか。
当の妻は、タコウインナーが魚に変わったものの、スケッチに描いたイメージに近い仕上りに満足の様子。
ちょうど今頃、二人は嬉々として、他の子のおべんとうもちょっと意識しながら、芝生の上で楽しくランチしているはずである。(うの)

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2009.5.12 "sc journal" 掲載blog 47

喫茶店にて
先日、地元の新聞で、詩人 萩原朔太郎の書いた『喫茶店にて』という随筆について触れたコラムが目についた。
朔太郎は「水と緑と詩のまち」そしてSTUDIO CLIPの地元である前橋市に生まれ(1886)、”口語体の自由詩にとぎすまされた感覚的表現を持ち込み、新しい詩風を確立した。” とされ、近代詩史に大きな足跡を残した詩人である。
豊かな水と、今の季節は河畔の柳の緑が美しい「広瀬川」のほとりには記念館があり、朔太郎の像が建っている。
新聞のコラムでは、随筆からほんの数行が引用されていただけなのだが、そのフレーズがとても気になり全文を読んでみた。

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『喫茶店にて』 萩原朔太郎

 先日大阪の知人が訪ねて来たので、銀座の相当な喫茶店へ案内した。学生のすくない大阪には、本格的の喫茶店がなく、珍らしい土産話と思つたからである。果して知人は珍らしがり、次のやうな感想を述べた。先程から観察して居ると、僅か一杯の紅茶を飲んで、半時間もぼんやり坐つてる人が沢山居る。一体彼等は何を考へてゐるのだらうと。一分間の閑も惜しく、タイムイズマネーで忙がしく市中を馳け廻つてる大阪人が、かうした東京の喫茶店風景を見て、いかにも閑人の寄り集りのやうに思ひ、むしろ不可思議に思ふのは当然である。私もさう言はれて、初めて喫茶店の客が「何を考へて居るのだらう」と考へて見た。おそらく彼等は、何も考へては居ないのだらう。と言つて疲労を休める為に、休息してゐるといふわけでもない。つまり彼等は、綺麗な小娘や善い音楽を背景にして、都会生活の気分や閑散を楽しんでるのだ。これが即ち文化の余裕といふものであり、昔の日本の江戸や、今の仏蘭西の巴里などで、この種の閑人倶楽部が市中の至る所に設備されてるのは、文化が長い伝統によつて、余裕性を多分にもつてる証左である。武林無想庵氏の話によると、この余裕性をもたない都市は、世界で紐育と東京だけださうだが、それでもまだ喫茶店があるだけ、東京の方が大阪よりましかも知れない。ニイチエの説によると、絶えず働くと言ふことは、賤しく俗悪の趣味であり、人に文化的情操のない証左であるが、今の日本のやうな新開国では、絶えず働くことが強要され、到底閑散の気分などは楽しめない。巴里の喫茶店で、街路にマロニエの葉の散るのを眺めながら、一杯の葡萄酒で半日も暮してゐるなんてことは、話に聞くだけでも贅沢至極のことである。昔の江戸時代の日本人は、理髪店で浮世話や将棋をしながら、殆んど丸一日を暮して居た。文化の伝統が古くなるほど、人の心に余裕が生れ、生活がのんびりとして暮しよくなる。それが即ち「太平の世」といふものである。今の日本は、太平の世を去る事あまりに遠い。昔の江戸時代には帰らないでも、せめて巴里かロンドン位の程度にまで、余裕のある閑散の生活環境を作りたい。

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何十年も前に書かれた文章が、そのみずみずしい響きで「今の暮らし」を客観的に見直すきっかけを与えてくれる。 インスパイアされる喜び。(うの)

090512

2009.4.27 "sc journal" 掲載blog 46

雨の日にできる事。
一日中しっかりとした雨が降り、思わずストーブに火を入れてしまうほどに肌寒かった先週の土曜日、外出する気にもならなかったので、思いつきで手作りクッキーを焼いてみた。
たまたま「たまご」をきらせていたものの、早速インターネットで検索すると、出てきた。「卵なしで出来る、手作りクッキー」のレシピ。 それも、簡単にメモ書きしておけるほどのシンプルなもの。
ミルクとオイルに砂糖と粉を加え、ジップロックの中で捏ねた生地をワインのボトルで平に延ばし、動物や自動車や手の形をした型で抜き、170度に熱したオーブンで15分焼くだけ。
型抜きから参加した娘は、自分が形づくったクッキーがオーブンの中で焼けていく様を見て嬉々としていた。
出来上がりは... 思いつきで作ったファーストクッキーとしては味も形も上々だったと思う。
なによりも、肌寒い雨の日の過ごし方としては... なかなか良かった。(うの)

090427

2009.4.10 "sc journal" 掲載blog 45

それぞれの美しさ。
今年の春は「すごい」。花の盛りに雨らしい雨も降らず、強風も吹かず。
今も、仕事をしながら視線を窓に移すと、視界の約30%を満開の桜が占め、その他たくさんの草花、木々の緑...。
まさに「ため息が出るほどの...」美しい風景に囲まれている。しかもそんな状態が数日続いている。
しかし、ふと冷静に考えると、今はその際立った花の鮮やかさに気持ちが集中してしまいがちだが、夏が来れば入道雲のかたちや夕立ちの音に心が動き、秋は秋で、高い空や葉の色づきに感動し、冬になれば、その寒々とした枯れ具合に違った美しさを見いだすのである。(ただ正直なところ最近の盛夏はちょっときつい... 。)
このチューリップは、2月28日の記事「Signs of Presence...」の時には芽が出たばかりだったもの。
家の北側、気持ちよい日の光がほとんど当たらない所に植えられているクリスマスローズ。通りがかりの人の「花を咲かせるのってむずかしらしいですね。」という言葉を尻目に、今年も見事な花を咲かせてくれている。一鉢たしか840円くらいのものを無造作に植え、1年に1回くらい、思いついた時に元肥をパラパラ撒いているだけなのに。ありがたい。
今日一番の感動。家の西側、塀と家の間の伊勢砂利をしいた狭いスペースに、ここ数日目立ってきた雑草を抜いていた時に見つけた、数本のビオラ。
風で種が飛んできたのか... 、カタバミや他の雑草に混ざって、直径3センチほどの可憐な紫の花をしっかりと太陽に向けて咲かせていた。
多くの人を楽しませる見事な桜も良いけれど、日陰に咲くクリスマスローズも、人知れずひっそりと咲く小さなビオラも、それぞれに最高に美しい。
「鈴と小鳥とそれからわたーし。みんな違ってみーんないいー。」 ふと、教育番組「にほんごであそぼ」で、konishiki演じるコニちゃんが子供達と歌う曲を思い出した。そうそう、この「にほんごであそぼ」のグラフィク。これもまたすばらしい。(うの)

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2009.3.31 "sc journal" 掲載blog 44

キジバト
まだ少し肌寒さを感じさせる「花冷え」の空気も、二重ガラスの大きな窓に阻まれて、 心地よい日差しだけを感じている仕事場での午後。
この季節特有の... というよりも、最近は一年を通して、決まってこのくらいの時間にやってくる、堪え難くそして限りなく甘い『眠気』という誘惑。
そんな、まさに潜在意識と覚醒した意識との間を行ったり来たりしている時、「半眼」の視線はパソコンのモニターではなく、その下のリンゴマークのあたりを、ただただ漂っている... そんな気持さに浸っている時にふと感じた視線。
それは、道をはさんだ反対側にある、今年もまた、他の木よりも早く満開を迎えた桜の花を背景に、芽吹き始めたばかりの庭のもみじの枝で羽を休める「キジバト」の視線だった。

う:「何見てんだよ。」
キ:「なにボーッとしてんのよ、ちゃんと仕事しなさいよ。」
  (イメージ的にこのキジバトは ”she"。)

カメラを取り出し、何枚か写真を撮り... その間も、そしてその後しばらくの間静かに枝に止まっていたキジバトに、「わかりましたよ。仕事しますよ。 気持ちよかったのに。」と悪態をつきデスクに戻る。
なんて事はない、春の午後のひととき。
だいたいみんなこんな感じでしょ。そんな事ないか。(うの)

090331