sc_journal Feed

2010.12.27

2009.3.26 "sc journal" 掲載blog 43

ささやかな楽しみ。
日々の暮らしの中で、"少し先にあるささやかな楽しみ" を持っているだけで、今の時間の過ごし方や、気持ちのあり方がだいぶ違ってくると思う。
気のおけない仲間と花見の計画とか、混雑を避けてあえて自宅で読書&DVD三昧すると決めたゴールデンウィーク。2ヵ月後にやっと取れた有名店でのディナーの予約...。
「このまま冬が終わらなければいいのに。」と言っていたパートナーが先日、期間限定ショップで買った太めのバングル。濃いパープルとライトグリーンのツートーンカラーにハンドライティングの文字が入ったボールドなイメージのアクセサリー。
これからますます春らしさが増し、初夏そして盛夏へ...。季節の変化に伴って軽やかになっていく装い。
質感を伴った遊びごころは、リネンやコットンといったSTUDIO CLIPのシンプルな素材感との相性も良いと思う。
「早くもっと暖かくなればいいのに。」 多分、このバングルは彼女にとっての "少し先にあるささやかな楽しみ" のひとつになったはずである。(うの)

090326

2009.3.13 "sc journal" 掲載blog 42

なめさん
シンプルにふりかけだったり、納豆だったり、生卵だったり...
佃煮とか、刻んだ白菜漬だったり、しらすおろしにしょうゆと七味とうがらし...
炊きたての白いご飯の上にのせて。
日本人で良かった! と心の底から思う朝餉の時間。
そんな「ご飯の友」の中でも、子供の頃に好きだったのが「なめ茸」。
今でこそ、さまざまな理由から「ご飯のすすむもの」は極力避けなければならず、自然と「なめ茸」からも遠のいてしまっていたのだが、先日、朝の食卓に小鉢に入った「なめ茸」があるではないか。スーパーで買った覚えもなく、「これどうしたの?」と聞くと、「えっ、それ作ったんだよ。」との返事。
「おーっ」と感嘆の音を発しながら、早速ご飯にかけて一気に食べる。
作りたての「なめ茸」は、えのきの食感が程よく残り、市販のものよりも味付けも優しめで、もちろん保存料とか化学調味料などの添加物も一切入っていない優れものだった。

レシピ
1. えのき茸を石突きを切り取って、2cmくらいの長さに切る。
2. みりんとしょうゆで3分位煮る(調味料の量はお好みで...)
以上。これってレシピ? って言うくらい簡単。

今朝も食卓にのぼった「なめ茸」。
いい感じに写真に撮ろうとあれこれ思案する親を尻目に、「なめさん、うんまい!」となめ茸ご飯をほおばる娘。
あつあつのご飯に手作りなめ茸、好きな人は是非一度お試しあれ。(うの)

090313

2009.3.9 "sc journal" 掲載blog 41

腑に落ちない話。
2004年9月、引っ越しに合わせて購入し、4年半使っている「IH炊飯ジャー」の内蔵電池が切れた。
炊飯予約が出来ず、電源を入れていない時に液晶が消えている... 取り扱い説明書を見ると、まさに「内蔵電池切れ」という事らしく、消耗品のそれは、4年から5年が寿命とも書いてあった。そして、内蔵電池は電機部品に組み込まれているため、交換する場合は買った店まで持ち込まなくてはならないらしい。
ほぼ毎日、ご飯を炊く時に戸棚から出し、使った後は外せるものは外し、ゴムパッキンやら何やら、洗えるところを全て洗ってから戸棚にしまっている我が家の炊飯ジャーは、見た目はほとんど買った時のままの状態を保っている。もちろんご飯もおいしく炊けている。
交換を前提にした消耗品ならしょうがない。と思い、購入した家電量販店に問い合わせの電話をしたところ...
「店の修理窓口に持ってきてください。」「メーカーに送りますので1週間から10日くらいかかります。」「修理取り次ぎ料金として2,000円で、さらに電池の交換料が約4,000円から5,000円かかります」と。 えっ? これって故障っていう認識?
心のどこかでこのような展開になる事は予想しながらも、釈然とせず....。そこに追い打ちをかけるように電話の向こうから「新しいものでも数千円のものから1万円くらいのものまでありますので...。」
金額の問題ではないのに... 受話器を握ったまま、一瞬にして虚しい思いに包まれ、「検討してみます。」と電話を切った。
仮に言われるままの料金を支払って電池を交換してもらうにしても、待っている間の1週間から10日間、バックアップ炊飯器(もし普通の家庭でそのようなものが備えてあるとしたら)で米を炊け、とでもいうのだろうか。
いくら大事に、きれいに使っても4~5年でほぼ強制的に訪れる最後の日。組み込まれているのは「内蔵電池」という名の「時限装置」。
あまりにも当然のように、「新しいの買ったほうが安くて得。」的な思考が開発者にも、販売者にも、これまた当然のようにある今のシステムって... やはり虚しいと思う。
おそらく近いうちに、家電量販店に行く自分たちが、今の時代に合った、ユーザーフレンドリーな炊飯ジャーと出会う事が出来るのだろうか。
それにしても、世界に誇れるはずではなかったのか? 技術力だけじゃあないと思うぞ、日本のものづくり。(うの)

090309

2009.2.28 "sc journal" 掲載blog 40

Signs of Presence... 「春」
仕事中、窓越しに見る庭の花壇に雑草が生えはじめてきたので、時間の空いた時に草むしりをした。すると、ちょっと見ない間に、去年の暮れに植えた球根が芽吹き、肉厚のしっかりとした葉が顔を出しているではないか!。中にはすでに可憐な白い花を咲かせているものまであって... 、驚き、喜び、ささやかな感動を覚えた。
「春の息吹」。英語だと "sign of presense" という言い方があるらしい。
存在のしるし。和英辞典(英和も同じ)から引きだす言葉は、得てして、実際にはちんぷんかんぷんの場合が多い。でもこの言葉はちょっと良い感じがする。今はとても便利な時代で、例えば、googleで"sign of presence"と入力し検索すると、実際の文章の中でどのように使われているかを見る事ができる。
どうもこのフレーズは「神の存在」とか「目に見えない力の存在」とか、少し宗教的に使われる事が多いようだ。でも、ここは日本。「八百万の神」の国。「全てのものに神が宿る」と考えれば、私が春を迎える庭で感じたのは、まさにたたくさんの「存在の印」なのである。
では、例えば冬の間はどうなのかというと、以前このブログでも触れさせてもらった「冬枯れした蔦」や「青い炎」、こういったもの達からも、しっかりと"sign of presence"を感じる。
日々、身近にある "signs of presence" を意識する事は、自分の暮らしをより慈しみ、良く生きる事につながるのではないだろうか... と思った。(うの)

090228

2009.1.23 "sc journal" 掲載blog 39

ブルーフレーム
私の仕事場は南側に大きなガラスの引き戸、というか壁全体がガラスのようになっているため、太陽さえ出ていれば真冬でもとても暖かな空間である。
そんな仕事場でも、曇天や雨の日、ひと冬に何度かあるかないかの雪の日(写真)そして夜の仕事の時には、気に入りのアラジンストーブに火を入れる。
色もフォルムもクラシックなストーブの胴の部分を倒し、ダイヤルをまわして芯を繰り出す。マッチから火を移すとオレンジ色の炎が芯にそってゆっくりと円を描く。胴を戻して芯の出具合を調節すると、炎が青く安定してくる。美しく、静かに燃える青い炎。アラジンのストーブが「ブルーフレーム」という名を持つゆえんである。
季節の始まりに芯を削ったり、その都度マッチで火を付けたり、微妙な調節が必要だったり... 暖房効率を考えても必ずしもベストな選択とは言えないアラジンのストーブ... でも、いいんですよ、これが。
冷えた手をそっとかざしたり、足の裏が冷たく感じる時はストーブに背を向けて、足の裏を暖めたり。まったく愛おしい「青い炎」。
私が住む地域では、最近新築される家に薪ストーブ用の煙突のある家を多く見かける。
アラジンと比べても数倍手のかかる薪ストーブがなぜこんなに人気なのかは良く分かるような気がする。
日本では囲炉裏の周りに、欧米では暖炉の前に、未開の地ではたき火を囲んで...、一日の終わりに人々は炎を囲みながら、大切な時間をゆったりと過ごして来た事の名残りなのだと思う。
この季節多少寒くても、曇っていたり、冷たい雨や雪が降っている時のほうが嬉しく感じる時がある。 南側のロールスクリーンを全て開けて、アラジンのストーブに火を入れて...。窓の外を眺めながらケトルがカタカタ鳴る音を聞いていると、何かいいアイデアが浮かんできそうな気がする。(うの)

090122

2009.1.7 "sc journal" 掲載blog 38

冬枯れのツタに思う。
昨年の暮れに写真撮影をしたスタジオの壁で見つけた冬枯れしたツタ。
グレーのモルタルの壁面に這う乾いた植物がつくる造形に心引かれ、新しい年を迎えるためのイメージとして使ってみた。
芽吹きの春から深緑の夏には、そのさわやかで涼しげな印象が通る人を和ませ、
葉の色が変わる秋には人の心と共鳴して物悲しさを美しさで癒し、
葉の落ちきった冬枯れした姿でさえ見る人に感動を与える... こんなツタのような存在に私はなりたい(ちょっと宮沢賢治風に)。
このツタの感じは、よく北欧の食器やキッチンウエアに描かれている細いラインの文様に似ているような気がする。
今年はせめて、このツタのようにさりげなく、でも根気強いイメージで行きたいものである。(うの)

090108

2008.12.18 "sc journal" 掲載blog 37

「手仕事」が大事。
やれやれ...である。
ブログの更新が遅れてしまった事への言い訳ではないが、ちょうど一週間前の朝、Macが起動しなくなった。
デザインの仕事を長くしていると、何年かに一度はこういう事があって、その都度胃のあたりがキュッとなって、冷たい汗が背中を流れる。しかし、回を重ねる度に、そして今回はハードディスクのトラブルではない事が分かったので、比較的冷静さを保つ事が出来、世話になっているスペシャリスト氏に連絡し、落ち着いて状況を説明する事が出来た。
とは言っても、日々の仕事に必要なデータが全て入っている訳で、この危機的な状況から脱するために... さまざまな事を試し、問い合わせし、その都度落胆し、結局新しいMacを購入した訳である。
昔から比べれば、比較にならないくらい「お求めやすく」なったコンピュータだが、当然新しいMacはOSのバージョンも上がっていて、それに伴ってソフトもアップグレードもしくは新たに購入する必要もあり、結局「とても痛い、急な、そして結構な出費」になってしまった。「でもさ、しょうがないよね、これで食べてる訳だからさ...」と誰にともなく、自分で自分をなぐさめながら、でもそろそろ買い替えが必要になっていたデジタルカメラの購入はしばらく無理そうである。
それにしても仕事だけに限らず、暮らしにおいて「デジタルな環境」に依存しすぎていると強く感じる。
例えば、デザインの仕事においては、本来コンピュータに向かう前の「考える」ことから始まり、「考えをスケッチする」「言葉に置き換えてメモする」などのアナログな作業がしっかりと出来ているものの方が、最終的に質の高い作品になる場合が多く、最終的にコンピュータで処理したデジタルデータが壊れたとしても、手元に残ったスケッチやメモから作品を再生する事は容易なのである。
何事も利便性や効率の良さが問われている今こそ、きちんとした「手仕事」が大事なのだと改めて気付かされる。
ロゼッタストーンしかり、多胡碑しかり、石に刻まれた文字は気が遠くなるほどの時を経た今も残り、木片に書かれた文字も、和紙に書かれた文字も数百年という時が経っても、しっかりと、そのメッセージを私たちに伝える役目を果たしている。しかし、デジタル信号で残されたメッセージはいったいどれほどの寿命を持っているのだろうか。
例えば、今ここに「フロッピーディスク」に記録された大切なメッセージがあったとしても、今の私にはそのメッセージを見るための術がない。こんなデジタル化された環境に暮らしているのに。(うの)

081218

2008.12.8 "sc journal" 掲載blog 36

温かいスープ。
冷え込みの厳しい初冬の朝、
前日夕食で残ったスープが、鍋から移されたホーロー容器のまま、クッカーの上で、直接弱火にかけられ温かそうな湯気をあげていた。
窓から外を見ると、隣家の屋根のソーラーパネルまでが霜で白くなっているような冷たい冬の朝。
「これぞホーローのなせる技」と感心しながら、そのあまりにも季節や暮らしに馴染んだ「生活雑貨らしいたたずまい」に心動かされる。
ちなみに中身は肉団子と白菜。体も心も温まる一杯のスープ。(うの)

081208

2008.11.29 "sc journal" 掲載blog 35

庭の紅葉
厳密に言えばまだ11月なのに...
「12月・師走」という言葉を聞くだけで何となく、気持がそわそわしてくる。
日本で良く使われるフレーズに「これじゃ年を越せない。」「これで年が越せる。」というのがあるが、これは日本独特の考え方だと思う。
そして、この考え方のせいで、師走になると、年内に残された時間の中でしなくてはならない事が自分の中で積み重なっていってしまうのである。
まさに too much on my plate... あせり症の自分は「過緊張」で毎朝5時30分に目が覚める事になってしまう。
そして、このブログの更新もまたしかり...なのである。あー、あせる。
という事で、今回は我が家の庭の山もみじ。見事に紅葉しているの図。(うの)

081129

2008.11.21 "sc journal" 掲載blog 34

帰って来た小包
仕事場の本棚にずーっと置いてある小包がある。
コンピュータに向かって仕事をしていても、少し視線を動かすだけて目に入る場所に置いてある。というか飾ってある。
美術学校時代の知人J(生粋の英国人)が、同窓で学んでいたこちらもはやり知K(ドイツ人)の妹さんと結婚した、という話しを人づてに聞いて『結婚祝い』として用意し、送り、そし「受取人転居先不明」で戻って来た小包。
今回、棚からおろしてみると、紙もテープにもほどよい「パリパリ感」が出ており、返送期日を見ると 13/5/96 (1996年5月13日)とあるので驚いた。なんと12年前である。
中身は「江戸切り子のペアグラス」。過去何度か「開けて自分達で使おうか...」と思った事もあったが、何となくそのままに。
開けられない理由としてはちょっとしたセンチメンタリズム。ひとつの小包が成田から飛行機に乗ってヒースロー空港まで行き、その後ロイヤルメールの赤いトラックでソーティングオフィス(配送センターのような場所)まで運ばれ、一度は北部ロンドンにある街の一棟のフラットの前まで行き、受取人が見つからず、また飛行機に乗って帰って来たかと思うと... 開けてしまうよりも、そんな、ほぼクリアに想像できるルートやしばらく暮らしていた街並み、知人達の顔、その場所で過ごした時間みたいなものがひとつの小包に詰まっていそうな気がして... 旅の行程で貼られたラベルやメモ書きみたいなものをそのままの形で残したいと思ったのである。
それにしても、せっかくのセンチメンタルヴァリューにキズを付けるようなのだが、切手を見るとこの小包のロンドン往復の旅費は2,060円。改めて郵便っていうのはすごいシステムだと思う。
英国は郵便システムの生まれた国としても知られているが、当時は(今はどうかわからないが)日に2回、必ずポストマンが配達にやってくる。心待ちにしている手紙がファーストポスト(1度目の配達)で届かなくても、セカンドポスト(2度目の配達)で来るかも...と望みを繋ぐ事が出来た。郵便料金も「速達」などの特別な便ではなく、「普通郵便」も翌日届く1st classとあまり急がない2nd classに分かれていて料金が違ったりしていた。
それに比べ... 私の住む町では、数ヶ月まえに気が付いたのだが、日に一度きりの郵便配達が夕方の5時頃来るようになった。これって普通に考えるとまさに「ありえない」事だと思う。例えば、仕事の書類や資料を郵便で送付してもらった場合、届くのは翌日の早くて夕方の5時。「そろそろ仕舞いにしようかな~」なんて考えても良い時間ではないか。大切な書類のやり取りを宅配便に持っていかれる...さもありなん、である。
でもね、本当は「郵便でメッセージが届く」ほうが雰囲気はあると思うのです。ロンドンまで行って帰って来た小包を見ていると特にそう感じるのです。(うの)

081121b