メイン | 2011年1月 »

2010年12月

2010.12.27

2008.7.3 "sc journal" 掲載blog 16

陶器のはなし
豆皿、ぐいのみ、お茶碗などなど... 写真の「器」は作風がとても好きな、地元群馬で活動している若手の女性陶芸家の作品である。
この他にも数点持っているが、毎回毎回戸棚から出すたびに「本当、いい器だな~。」と思う。
話は少々飛ぶが、先だって、1歳半の娘に「オレンジのヨーグルトがけ」をあげたところ、運ばれてくる器とその中身を見た時の彼女のリアクションが、目を細め、口を尖らせて「ウー、ウー」と叫びながら椅子から身を乗り出して...、「早くちょうだい、早く、早く」と、そんな感じだった。見るからに嬉しそうで、多分そんな気持ちの時は「良いホルモン」がたくさん分泌されていて、免疫効果も高めてくれて...。 単純に「良い感情を持つ」ということは体にとってとても良い事なんだろうな、と思った。
何が言いたいかというと、これらの「器」は、「器」としての役割りをきちんと果たすだけでなく、使うたびに私の中で「良いホルモン」を分泌させて、例えばさりげなく、風邪を引きにくい体、病気になりにくい体にしてくれているのかもしれない。ということは、生活雑貨にしても、服にしても、人間関係にしても... 自分にとって「良い感情」をもたらしてくれるものに囲まれて暮らすという事は、体にも良い事なんではないだろうか。(当たり前だが、その逆は体にとても悪いという事になる。)
前回の記事でも少しだけ触れたが、これらの「器」からも作り手の想いがちゃんと伝わってくるのである。以前この作家さんと話している時に、彼女が毎朝、ぬか床から出した漬物を切り、魚を焼き、ご飯を炊いて、自分で焼いた器に盛って...、そんな朝食をとっていると言っていた。その話を聞いた時に持った「きちんと暮らしているんだ」という強い印象が、「こういう人がつくる器を使いたい」という気持ちに繋がって行ったのだと思う。
この作家さんには以前、スタディオクリップをイメージして「オリーブの葉」をあしらった「土鍋」を作っていただいた事がある。
「器」以外の作品もとてもすばらしので、それらの紹介はまた後日改めて...。あー、そろそろ新作を仕入れに行きたくなって来た。
*この記事を書かせてもらうにあたり連絡をとったところ、赤ちゃんを授かって今は充実したマタニティライフを送っているとの事。新しい作品の購入はおあずけになってしまったが、おめでたいニュースにまたまた「良いホルモン」が分泌されてしまった。(うの)

080703a

2008.6.25 "sc journal" 掲載blog 15

嬉しい “Handwritten Message”
今ほどインターネット通信やデジタルでの情報のやりとりが盛んではなかった頃には、時折り友人や知人からポストカードが届いた。
海外旅行先からのカードは、訪れた事はないが良く目にする風景で少しキッチュなイメージなものが多くて、でもそこに書かれているメッセージに温かいものを感じた。アート系のポストカードや自分で撮った写真をカードにしたものにしたためられた、ほんの数行でまとめられた近況報告...。それらはどんなものであっても「もらってうれしいもの」だった。
自分でも美術館へ行ったりすると、必ずと言っていいほどミュージアムショップで気に入ったポストカードを何枚か購入し、ストックしておいたものだ。
先日、生活環境におけるひとつの節目を迎え、気持ちを新たに仕事に取り組もうと「バッグ」を購入した。仕事用とはいえ、ブリーフケース的なものを持つ必要はまったく無かったので、スタイル重視で、ショップスタッフの意見を聞きながら迷いに迷い、最終的に購入したものはとても気に入ったものになった。
そして数日後、そのショップから届いたポストカードには、肉筆で、バッグを買ったことへのお礼、購入したバッグに関する補足的な情報が丁寧な字で書かれており、最後は「お近くにお越しの際には是非お立ち寄りくださませ。」と結ばれていた。
おそらく書き慣れたフレーズ、いわゆる販促的な要素の強いメッセージカードなのかもしれないが、一文字一文字丁寧に書かれた文字や、買ったバッグのイラストまで描いてあるのを見て、単純に嬉しく感じ「また行ってみよう。次はキーホルダーでも買ってみようかな...。」と思った。
このメッセージを書いてくれたスタッフ(接客してくれたスタッフに間違いないと思う)は、数日前に訪れた客を思い浮かべながら書いたはずで、メッセージを読んだ私も、その時接客してくれたスタッフを思い浮かべながら読む。
同じ手書きのメッセージでも、思いが伝わるものは実際に思いを込めて書いているのだと思う。たとえそれが書き慣れたフレーズであっても。そしてそれはきちんと受け手に届くもの...だと思うのである。
先日、5つ前の記事「William Morris展」を読まれた方からメールをいただいた。
その方もWilliam Morrisのデザインが好きで、私の記事を読んで軽井沢での企画展にも行ってみたいと思い、もし行ったら報告のメールを送っていただけるとの事だった。 そして一昨日、その方からメッセージが届いた。William Morrisのポストカードで。いつもの郵便配達のお兄さんがカブに乗って運んで来てくれた。
メールが届いた時が最初の嬉しいサプライズ。そのうえポストカードを送ってくれるなんてさらに嬉しいサプライズ。二つのサプライズは間違いなく、私に「いい気持ち」を一緒に運んで来てくれた。 merci(うの)

080625b

2008.6.18 "sc journal" 掲載blog 14

ひまわり
梅雨の中休み。真夏のような強い陽が差す我が家の庭に3本のひまわりが植わっている。
保育園のバザーで買った1ポット100円のひまわり。
あらかたの商品が買い手を見つけ、走り回る子供達の他は少し閑散としてしまったバザー会場の一画で見つけたひまわりのポット。「せっかくだから...」と買ったのに、その日はポットのまま庭に置いておいたら案の定、気が付いた時には葉も花も力なく垂れ下がってしまっていた。
しかし...そこが花のすごいところ。もう夕方に近い時間だったけれど、たっぷりの水を根に含ませて地植えしたところ、翌朝には葉は力強く地面と水平に、花もしっかりと太陽のほうに向く準備をしていた。
まるで、ひまわりの茎の中を水が勢い良く通る音が聞こえ、花の付け根は、人間で言ったら喉がゴクゴクと波打つ様子が見えるようだ。
でも、不思議な事に、そこにひまわりが植えられたことで、そのまわりで控えめに咲く名も無い花の存在に目が行くようになった。ひまわりが無かった時はあまり気が付かなかった草花たち。
確かに、夏のひまわりは力強く、その元気な様子はまわりの何よりも目立つ存在ではあるが、必ずしもそればかりに目が行くわけではなく、逆に他の草花の「可憐さ」や「繊細さ」といった優しく、控えめな様子まで引き立って見えてくる。
結局はいろんなかたちのものが、バランス良く存在するのがいいのだと思う。
そういえば、以前美容師をしている友人から、美容室成功の要素のひとつとして、ひとつのサロンにドラえもんが居て、しずかちゃんが居て、のび太が居て、すね夫やジャイアンまで居るのが良いらしい、という話を聞いた事がある。(実際にスタッフをそれぞれの似たキャラクターに置き替えてみるそうだ。)
どんなシチュエーションでも、人が集まって何かをする場合は同じで、それぞれ違ったタイプの人がバランス良く、互いをリスペクトしながら存在するのが大切。という事だろう。 ちなみに私は...「ひまわり」ではない。(うの)

080618

2008.6.11 "sc journal" 掲載blog 13

マルコ ポーロ
2008年6月10日、久しぶりに恵比寿にあるStudio Clipのデザインスタジオ・MD本部を訪れる。
Studio Clipの雑貨や生活着が生み出される「ものづくり」の拠点で、互いの近況報告を中心に、個々の主観でとらえた世間話でとても楽しい時間を過ごした。そして途中、企画のチーフが最近訪れたばかりのパリの写真を囲んで話しをしている時に出していただいたのが、マリアージュフレールの「マルコポーロ」というお茶。
初めて口にしたこのお茶....一瞬フレーバーティー?と思わせるほどのフルーティーで軽やかな味。と思って箱を見たらきちんとFruity afternoon blendと書いてあった。
マルコポーロと言えば「東方見聞録」や日本を「黄金の国ジパング」と紹介したイタリアの商人であり旅行家(髭面のイタリア人のイメージ)として知られているが、ヴィジュアルとして浮かぶイメージに反して名前の音はちょっと「可愛らしい」感じがする。 “ M A R C O P O L O / マ ル コ ポ ー ロ ” 、 この軽やかな「音」のイメージがお茶を口にした時の「味」の印象とぴったりと一致したのである。
例えると、かごいっぱいの茶葉を抱え、黒いマントを来た髭面のイタリア人マルコが、東国と西国を「ひらりひらりと軽やかに」行き来しているようなイメージ(?)。 皆さんも機会があったら是非お試しあれ。(うの)

080611

2008.6.4 "sc journal" 掲載blog 12

視線の先にあったもの...
関東地方に梅雨入り宣言がされる前の日曜日、近くにある「群馬の森」までプチ・ピクニックに出掛けた。
レジャーシートと娘用にと前の日に炊いておいたカボチャ、ペットボトルに入れたお茶、そしてメインのランチは途中でパンを買って...。そうそう、車のトランクには三輪車。
鬱蒼とした森と広々とした芝生の広場で構成され、建築家 磯崎 新氏の代表的な作品のひとつと位置づけられる県立近代美術館のある県立公園「群馬の森」は、休日になるとたくさんの家族連れで賑わう、いわゆる「近くて気持ちいい」県民にとっての憩いの場所(もちろん県民に限らず)。春から夏にかけての緑はそれは美しく、実は、Studio Clipのアイテムを持ち込んで写真を撮らせてもらった事も数回...。
芝生の上に木陰を見つけ、シートを広げて、至極シンプルなパンをほおばる娘ごしに思い思いの時間を過ごす人達をボーッと観察するのはとても楽しい。休日のデイアウトやちょっと散歩に来た女性達や子供連れが持っているバッグや小物。強い陽射しを遮るためのハットや日傘など紫外線を避けるためのあらゆる方法、そしてあまりにも快適さを優先させすぎるがために何となくみんな似ている、ちょっと味気ないカジュアルな装い。そんな中で視線を引きつけられる「さりげなく気を使ったナチュラルな装い」の若々しいおかあさん。いろんな意味で微笑ましい情景をぶち破るように突然現れる、自転車進入禁止エリアに迷い込んでしまった、まさに「ツール・ド・フランスないでたち」のおじいちゃん達(ある意味最もトレンディー)。
そこには、それぞれの時間の過ごしかた、周辺環境への適応のしかた、家族やグループのかたちが存在する。意識してアンテナを張り、目を皿のようにして観察するより、ボーッと見ているほうがいろんな絵が目に入って来る。
簡単なランチを澄ませ芝生の木陰から鬱蒼とした森を通って帰路に付く。三輪車を押されるがままにまかせる娘が、ほんの数秒の間ハンドルから手を離し、上を向き目を細めていたその視線の先にあったのは、重なり合う木々の枝葉の間から見える陽の光。
まだ生まれて17ヵ月しか経っていない彼女の中にどんな感情が生まれたのか。まるで大人がするような、「あー、気持ちいいー。」というように目を細め、口角をわずかに上げ、微笑むような一瞬の表情。そして、彼女が見たであろうその風景をデジカメのファインダーごしに覗いた自分の中に悠然と広がった温かな感情。観察する事で具体的にヴィジュアル化出来るイメージとは違った、情操を揺さぶられるような、言葉で表現しようのないインスピレーション。
美術館で、街中でそして森で...、ここ最近インスパイアされてばかりの自分。表現に活かせるかは別として、肥やしにはなっていると信じるたい。(うの)

080603

2008.5.28 "sc journal" 掲載blog 11

街中のモダンアート
左から乳白(にゅうはく)、山吹茶(やまぶきちゃ)、深川鼠(ふかがわねず)、紺色(こんいろ)、墨色(すみいろ)、臙脂色(えんじいろ)、海松藍(みるあい)。 すべて大日本インキ化学(DIC)の『日本の伝統色』の中に見つける事の出来る色。 ’Couleurs en Japonais’(日本の色彩)と題したちょっとしたヴィジュアルイメージづくり遊び。ヨーロッパの若手デザイナーが日本文化に強くインスパイアされて作ったブランドイメージ、下げ札とかにどうでしょう...。
実は、先日日本橋から銀座に向かって歩いている時に見つけた、大通りの反対側に止まっていた一台のトラックと荷台に積まれたドラム缶。目立つような社名も入っていないきれいなブルーのトラック、背景にあるコリント式の柱と街灯...。それにしても積まれたドラム缶は全て見事なまでに「日本の伝統色」で、これまたきれいに塗装されている。見ようによってはモダンアートの作品(インスタレーション)にも見えてしまうような『偶然の風景』。
そして、単にこのドラム缶の色をピックアップして並べ、遊びで作った「ヴィジュアルイメージ/Couleurs en Japonais」。
外を歩いているとたまに出会えるインスパイアされる風景。こんな風に街中にあったり、自然の中にあったり...いずれにしても、もっと外に出ようと思った。(うの)

080528

2008.5.21 "sc journal" 掲載blog 10

William Morris展
長野県軽井沢にあるメルシャン軽井沢美術館で開催されている『ウィリアム・モリス展』に行って来た。
行きたいと切望していた企画展。思い立った日は、遠くの山の緑もはっきりと見て取れるような空気の澄んだ快晴。肌にあたる風も爽やかな、これ以上ないような日。
“19世紀英国で最も傑出した芸術家・思想家の一人であったウィリアム・モリス。モリスのデザインした壁紙やテキスタイルのパターンは多くの人に愛され、100年以上経った今でも日常生活の中に生き続けています。”(図録より) ウィリアム・モリスの名前にピンと来なくても、彼のデザインした壁紙や内装用ファブリックのパターンを見ると「見た事ある」と思う人が多いのではないだろうか。1834年にイギリスで生まれ、おそらく、芸術(装飾美)を日常生活の中に持ち込んだ初めての人物。
芸術家でありながらあえて「モリス商会」という、今でいうデザイン事務所を立ち上げ、作品を商品として流通させる。日本と比べると「芸術」と「商業デザイン」の線引きが明確なイギリスにおいては、かなり画期的な動きだったのではないだろうか。そして、ちょうどその頃に完成期をむかえた「産業革命」。私は、モリスが芸術家としてその時流に乗ったことがすごいと思ってしまう。だからこそモリスの芸術は100年以上経った今でも人々の目に触れ、暮らしの中で「感動」を与え続けられるのだと...。
展覧会を見に行くと決め、高速道路を走りながら窓の外に広がる風景に感動し、久しぶりに訪れた美術館のたたずまいと建物を包み込むさまざまな緑とのコンポジションにまたまた感動し、会場へのアプローチにふとイギリスの森を感じ(写真)、帰りに信州の蕎麦をたらふく食す。 五感全てを通して「インプット」した感を満喫した一日。
すばらしい時間に感謝。(うの)

080521a

2008.5.13 "sc journal" 掲載blog 09

暮らしの痕跡
先日の5月5日子供の日、1歳3ヵ月になる娘を柱の前に立たせ、三角定規を頭にあてて、リビングルームの柱に傷を付けた。
76.5センチメートル。ついでに、その下に生まれた時の身長である50センチのところにも傷を付けて...。
夫婦で眺めた二つの「傷」は、娘の成長にたいする喜びと驚き、そして生まれた時の感動を思い出させてくれた。この「柱の傷」は、今後日々の暮らしの中で起き、その都度記憶の中にストアされていく様々な出来事や思い出を、見たい時に引き出してくれる「鍵」のような存在になるのだろうか。
大切な椅子の背もたれに付けてしまった傷、無垢材のダイニングテーブルについた染み、物を落としてヒビが入ってしまったキッチンのタイル...。その時は「しまった」とやりきれない、ざわついた気持ちになったものが、少し時間が経つと気にならなくなり、やがて「あの時は...」と思い出を引き出す「鍵」になっていくのだと思う。
片割れが壊れて一つだけになってしまったペアのカップ、あまりの着心地の良さにそこらじゅうがほつれるまで着てしまっているTシャツ、ひどくすり減った、でも足に馴染んだバブーシュ...。新しいものに買い替えるのは簡単だけれど、それぞれの傷みが自分の「暮らしの痕跡」。モノを捨てられない...というのとは少し違った感覚で、愛着を感じるモノ達。多分その感覚は、毎日使う事で自然と築かれていく「良いモノ」と自分の親密な関係性。

「10年後はこの辺りに傷が付くのかな...」 刃物を使って自ら付けた「柱の傷」は、過ごして来た時間への想いだけでなく、これから訪れるであろう時間に思いを馳せるという「楽しさ」ももたらしてくれる。
思い切って付けて良かった...。「柱の傷」。(うの)

080512

2008.4.30 "sc journal" 掲載blog 08

容器 with style

シンプルさゆえに他の日用雑貨を圧倒する存在感
必要とされる機能を備え、ムダを徹底的にそぎ落としたフォルム
伝統が醸し出す「たたずまい」の美しさ
ブランドに感じる強い信頼感

“主にキッチンで食品を入れておく、または保存する容器”という単純な用途なのに、これほど愛着を覚え、見るたびに「あー、きれいだなー」と思わせる雑貨はあまり多くありません。
Weckは、おもむろに取り上げた時に、乗っているだけのガラスの蓋が「カタカタ」と音をたてる感じがとても好きです。キチっとしている印象とはうらはらの、いい感じの「ゆるさ」。別売りのゴムパッキンや金具を使えば煮沸保存ができるほどの堅牢で優れた機能も、ジャムやコンポート、トマトソースなどを入れられるや、色、素材感をガラス越しに見せ、「あくまでも主役は中身ですから」と言わんばかりの謙虚なイメージに...。
一方、野田琺瑯に感じるのは、「やさしく、大切に封じ込められている」感覚。金属とガラス質の釉薬の層で、その風味や香りを大切に守られる食品たち。例えば、コーヒーの粉を入れておくと、プラスチックの蓋を端からはがすように開けた時、いままで封じ込められていた香りが溢れ出してきて、思わず鼻を近づけて香りを楽しんでしまう。そんなイメージ。

厚手のガラスと琺瑯(ほうろう)、ドイツ代表と日本代表。どちらも自分の存在意義をもっともシンプルな形で表現しているというところに「優れたデザイン性」を感じます。何よりも目を引き、注意を引くシンプルな存在感...。そんなWeck & 野田琺瑯すごくいい。重ねて置いたところも美しい。(うの)

080430

2008.4.23 "sc journal" 掲載blog 07

「こごみ」に想う...
先日、実家の母が袋いっぱいの春の山菜「こごみ」を持ってやってきました。
“しっかりとした歯ごたえがあり、シダ類の野性味を感じさせる山菜で、クセが無いのでアク抜きせずに使えます。名前の由来は、丸くかがみ込むように生え、こごんでいる様から「こごみ」”なんだそうです。とにかく調理が簡単で、とても美味しい山菜。口の中に春の香りが広がります。
たしか去年もお裾分けにあずかったこの「こごみ」は、新潟に住む母の友人のお父様が摘まれたものを分けていただいているそうです。
いただいたたくさんの「こごみ」を見て「どう調理しよう...」と考えている時に母がつぶやいた「こんなにたくさん採るのは大変な事だよ。」の一言に反応するように、イメージが頭に浮かびました。それは遠くに暮らす娘さんに食べさせたい一心で、朝早くから山に入り「こごみ」を採るおじいさん(勝手に想像してます。あしからず)の姿。四季の美しさを堪能できる日本に住み、旬の山菜を食せる喜びと共に、食べさせてくれる人達の「想い」も一緒にいただいているのだな、と改めて感じました。感謝、感謝です。
「食」という字は「人」を「良くする」と書きます。良いものを食べる行為でなければ「食事」とは呼ばないんですね。口から取り入れるもので人の体は作られているのだから。
想いが込められたこの「こごみ」は、春の香りに加えて特別に優しい味がしました。

ちなみに、この皿(煎餅皿)はStudio Clipに勧められてちょうど2年前、おととしのゴールデンウィークにとあるカフェを訪れた時に、そこで開催されていた個展で購入した作品です。実は地元の群馬にも、とても気に入っている女性の陶芸家がいらっしゃって...。 器のお話はまた後日...。(うの)

080423