流通の現場
昨日久しぶりに東京ビッグサイトで開催されている「東京インターナショナルギフトショー」へ行って来た。
何年かぶりに出展しているメインクライアントのブースを見に、かなりの強行スケジュールで行って来た。(高崎を午前11時21分発の新幹線で出て、午後3時半には高崎に戻って来た。ほとんどフイユがお昼寝をしている間に行って帰って来たようなものである。)しかし、久しぶりのギフトショーは予想通りであり、新鮮でもあった。もっと時間的な余裕があったら、いろいろな意味で、ゆっくりと見て回るのも勉強になると思う。ちなみにクライアントのブースはとても良かった。
それにしても、あの巨大な施設を西と東に分け、コモディティの種類やライフスタイルなどによって作られたゾーンにあふれんばかりの「モノ・モノ・モノ」。展示会だからほとんどの商品は「各1点ずつ」くらいな訳であり、ほとんどの商品が数十、数百、数千、なかには数万という単位で受注を受け生産されていくのである。最終的にこの地球上に生み出される商品の数は、ギフトショーからのものだけでも、おそらく天文学的な数字になるはずである。そして、さらりと見ただけでも、大部分の商品のライフスパンはとても短そうで...という事は、その天文学的な数字で生産される商品のほとんどは、間違い無く、数年のうちに廃棄物として処理または埋め立てられる事になるのだ。
まー、それが流通であり、モノが動く事で経済がなりたっているのだからしょうがない事...。だろうか。
先日、食品の撮影の合間に写真家の沼さんと日本の食糧自給率の話になり、その低さに対する驚愕の思いと、そのくせ毎年のように見せられる、いわゆる「作りすぎた作物を重機でつぶす映像」との矛盾についてやるせない思いを共有した。沼さん曰く、「作り過ぎるということは、気候的な条件も良く豊作だった訳だから、あのつぶされている野菜はとても美味しいはず...」。その通りだと思う。
格差社会が問題化して、満足に食べられない人が増えている、というニュースバラエティ番組のCMに、一般的な「ヒト」でもなかなか口にする事が無いような食材を使ったペットフードの映像を見せられるという現実。どこかおかしいでしょう。
どのくらい前に変わってしまったのだろう。本来であれば、畑で取れた野菜、田んぼで取れた米、海で取れた魚、家畜などの食肉、生活に使う道具...を、人々の暮らしの中にまんべんなく行き渡らせるために、そしてそれらを生産した人々の暮らしの為に対価としてお金を払うという行為が逆転してしまったのは。「モノ」のために存在した「流通」が今や「流通」のために「モノ」が存在するということになってしまっている。
こんなにたくさんのおいしい野菜を市場に出したら「価格がさがってしまう」からつぶしてしまおう。こんな社会はとてもむなしいと感じる。しかし、この社会の中で、商業デザインを生業としている自分もある訳で...。やっぱり、そんな現状としての自分のありかたとバランスをとる為にも、カウンターウエイトとして何かするべき事があるのでは無いかと感じる。
あらためて、こんな事を考えるきっかけになった事を考えると、少し強行だったが「ギフトショー」に行って良かったと思う。
今日が午後から雪が降り続いている。うちの庭の紅葉の木に降り積もる雪の写真は...明日アップする事にしよう。
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